サルタの日本史の中の人々

長い日本の歴史の中には、この国の文化や政治、そして日本人の思想に多くの影響を与えた人々が存在しています。それらの人々の足跡や残した事柄をもう一度、見つめ直してみたいと思います。

大和朝廷の侵略に立ち向かった蝦夷の長 ”阿弖流為”

阿弖流為(あてるい)
?~803年

 



平安時代初期の陸奥国胆沢地方の蝦夷(エミ
シ)の領袖。


蝦夷(えみし)とは、本州東部以北に居住し、朝廷の支配下への帰属や同化を拒否していた人々に対する大和朝廷からの蔑称です。


蝦夷と蔑称された人々は、古来より生活してきた土地に言われ無き侵略をうけました。


断固、朝廷の侵略に立ち向かったのがアテルイいる胆沢地方の蝦夷でした。


789年からはじまる、大和朝廷蝦夷征服軍を20年近くも撃破し続け、蝦夷の独立を保ちます。


朝廷の征服軍は、延べ20万人とも言われています。


ついに802年、ともに戦いを指導した磐具公母礼(いわぐのきみもれ)と共に征東軍に投降します。


征夷大将軍坂上田村麻呂とともに、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上京しますが、朝廷の公卿達の蝦夷の主導者アテルイとモレへの恐れは深く、拝謁は出来ずに803年モレと共に河内国杜山で処刑されました。


京都、清水寺アテルイとモレの碑があります。

 

 

征夷大将軍 坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
756~811年 享年53

 

 



平安時代初期の武将。


789年に朝廷軍は陸奥国との戦いで、阿弖流アテルイ)率いる蝦夷軍に大敗します。


その後も蝦夷軍に敗れ続けた朝廷は、796年、坂上田村麻呂に、陸奥按察使、陸奥守、鎮守府将軍陸奥に関する全権を与え、征夷大将軍に任じ征東軍を派遣します。


802年 長年に渡って続けられた陸奥国との戦蝦夷の主導者、阿弖流為と母礼(モレ)の投降によって終息しました。


後の世、田村麻呂は武人として尊敬され、征夷大将軍は武人の最高位とされています。


京都、清水寺は田村麻呂の創建とされています。

 

 

平安京を開いた天皇 ”桓武天皇(かんむてんのう)”

桓武天皇(かんむてんのう)
737~806年

 

 



第五十代の天皇


大和から、長岡京に、そして平安京に遷都を実施して、平安時代の幕を開けました。


東北地方への東征を行蝦夷を統治しました。


宗教界では、空海最澄などを登用することで、仏教の強化を進めました。


後に、桓武天皇の孫、高望王は平の姓を賜与されて東国の上総に任じました。


高望王の子孫は、関東各地に広がり桓武平氏形成しました。


桓武平氏には、千葉氏、三浦氏、畠山氏、江戸氏、梶原氏、北条氏、上総氏、鎌倉氏、大庭氏、土肥氏 等がり、鎌倉幕府成立の時、源頼朝を旗頭に尽力しました。

 

日本の仏教の祖 ”鑑真”

鑑真(がんじん)
688~763年 享年76

 

 



鑑真は、唐の高僧です。


733年日本政府は、唐に2人の僧を派遣しま
す。


目的は、国内に「授戒伝律」の制度を確立するために仏教の先進国である唐に教えを請うためでした。


「受戒伝律」とは、僧 になるためには、僧による受戒が必要とする制度で、当時納税義務を免れる目的で、僧になる庶民が増大してきたことへの取締り制度です。


唐に渡った2人の僧は、9年の流浪を重ね、名僧鑑真に出会います。


日本への渡航を懇願すると、鑑真は「これ仏法の為なり、なんぞ命惜しからむ」と渡航を決意します。

 

しかし、鑑真の弟子たちや唐の高官が日本への渡航を阻みます。


何度かの渡航失敗の後、5回目の決行の時は暴風雨に阻まれ海南島に漂着し、1年間も滞在を余儀なくされてしまいます。


ついに鑑真は、失明してしまいます。


それでも、渡航を決意し、挑戦6回目で薩摩に入国しました。最初の決意から11年目の事です。


754年、平城京東大寺大仏殿で鑑真は、聖武上皇以下440名に授戒しました。


その後、律宗の総本山の唐招提寺を創建し大和上の尊号を得、日本の仏教に多大な影響を与えました。

日本史上日本国の忠臣 和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(わけのきよまろ)

733~799年 享年66

 



769年、称徳天皇宇佐八幡宮の神託「道鏡皇位に就かせれば天下太平になる」が奏上されました。


これは道鏡皇位を望んで企てたこととされています。


天皇は、神託の真否を確認するために、和気清麻呂を召しだし勅使として宇佐八幡宮に向かわせます。


権力を掌握していた道鏡に異を唱える者は、死を意味するものでした。


しかし、清麻呂宇佐八幡宮から持ち帰った神託は、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」というものでした。


自らの命をかえりみずに皇室の系統守ったのです。


これにより日本史上日本国の忠臣として称えられ
ています。

藤原氏繁栄の基礎をつくった人物 ”藤原不比等(ふじわらのふひと)”

藤原不比等(ふじわらのふひと)

659~720年 享年62

 



藤原不比等中臣鎌足の次男として生まれ、大律令の編纂、施行で中心的な役割を果たし、のちの藤原氏繁栄の基礎をつくった人物です。


大納言から右大臣に進み、平城京遷都を実行します。


娘、宮子が文武天皇夫人となり聖武天皇を生み、そ聖武天皇の皇后に、もう一人の娘、光明子がなるなど皇室と結んで、権力を確立します。


藤原氏の氏寺として、隆盛を誇った興福寺は、不比等が厩坂寺という寺を平城京に移建したものです。

 

実際に大化の改新を推し進めた人物 高向玄理

高向玄理(たかむこのくろまろ)

?~645年

 


608年に遣隋使小野妹子に従って中国に留学
生として渡ります。


30年余りを中国で過ごし、654年に帰国し
ます。


大化の改新では、共に中国で学んだ僧の旻(みん)とともに国博士として政府の最高顧問となり、改新を大きく進めました。


654年、朝鮮半島をめぐる政情が悪化すると、遣唐使として長安に向かい唐の皇帝皇宗と会見をしますが病に倒れ亡くなりました。